李氏朝鮮末期の凄惨


悪辣な両班、苛烈な搾取、悲惨な貧困、極限的不潔、

未発達な社会、残虐な刑罰、動物以下の女性の生活など、

外国人が見た人間業とは思えない李氏朝鮮末期の実態

 

 

生活の多くの部分で迷信がはびこっている。男児獲得のため、病人治療のため、いい墓所選びのために貧乏人でさえ借金をしてでも巫堂や心霊術師を呼ぶ。彼らの言葉はすなわち法であり、人々は彼らの言いつけどおりにしなければならない。)


 

宗教―迷信やシャーマニズムにとらわれた生活

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(196

 

ローウェル『チョソン、静かな朝の国』(米国人、188384年朝鮮各地を旅行)

 

(普遍的な宗教はない)

 

 ローウェルは、朝鮮には事実上宗教がないに等しいと見た。朝鮮人が神聖視する樹木があり、祠のような家を建てたが、それは普遍的なものではなく、また宗教の形に発達することもなかったと見た。彼は、朝鮮人が「悪霊信仰」あるいは「鬼神信仰」を我がものとしたと結論づけた。これは多くの西洋人の観察と一致する。彼らは一様に、朝鮮人が祖先崇拝の性向を一般に抱いているが、実際は迷信やシャーマニズムにとらわれて生活していると批判している。

 

 科学者であっただけに、ローウェルは朝鮮における科学発展の水準に関心を抱いた。彼はいまだ科学発展が低い水準にとどまっていることを見抜いた。朝鮮では、牝牛の乳を搾る術を知らず酵母を知らないため牛乳・バター・チーズ・パンは見受けられないと指摘している。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(466

 

米国人宣教師ベアード『コリアの夜明け』  

 

(借金をしてでも巫堂や心霊術師に頼る)

 

 生活の多くの部分で迷信がはびこっている。男児獲得のため、病人の治療のため、いい墓所選びのために貧乏人でさえ借金をしてでも巫堂や心霊術師を呼ぶ。彼らの言葉はすなわち法であり、人々は彼らの言いつけどおりにしなければならない。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(205

 

米国軍軍医ウッズの日記   

 

 朝鮮には仏教徒儒教が入ってきたが、主なものはシャーマニズムであると書いている。この国では不死鳥や龍のような想像界の動物、そして麒麟や亀のような長寿の動物が尊重されると指摘した。キリスト教は、先祖崇拝を否定したため大きな反感を買っているとも書いている。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(150

 

リーデル神父『我がソウル監獄生活』  

 

(王宮においても呪術師が病気治療)

 

 彼はしばしば巫堂(ムーダン)と呼ぶ呪術師について、長い説明を行っている。李氏朝鮮後期に朝鮮を観察した西洋人が例外なしに指摘した事実の一つが、この国には巫堂が多く、ひいては王宮の奥においても、彼らを招いて厄払いしたり、病気の治療をしようとしたということだ。

 

 

『朝鮮紀行』(187) 金剛山   

 

(仏教修行僧も無学で迷信深い)

 

 この深山に隠遁してしまった瀕死の仏教は、鬼神信仰を上塗りされ、清国の仏教と同じようになかば神格化されたおおぜいの聖者の下で窒息しかけている。例えば門徒のような日本の大きな仏教改革派の特色である、正義を求める崇高な目的や向上心はなにも見られない。

 

 修行僧たちはひどく無学で迷信深い。みずから信仰している宗教の歴史や教義についてほとんど何も知らない。経文の意味についてもそれは同じで、彼らの大半にとってはお経もたんなる「文字」にすぎず、たえず繰り返せば「メリット」のあるものにすぎないのである。漢字を知っている者もなかにはいるものの、礼拝の際には彼らは意味などちんぷんかんぷんのサンスクリット語あるいはチベット語の文句をつぶやいたり唱和したしするのである。大半の修行僧から私が受けた印象は、彼らは何の意味もなく宗教的な儀式や作業を行っており、何人かの例外を除いて、信仰を持っていないというものであった。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(237

 

米国人宣教師ホレイス・グラント・アンダーウッド『コリアのアンダーウッド』

 

(呪術師は国の支配層をも支配)

 

 さらに人びとは科学技術の発展に力を傾けることをしないで、ありとあらゆる迷信に頼りその「教え」に従った。出生・疾病・結婚・死去といった人間生活のほとんどの場面で、彼らは巫堂と呪術師の指示どおりに動こうとしていた。アンダーウッドの見るところ、「実際においてムーダンと呪術師は絶対的かつ侮れない力でもって、この国をそして支配層までも支配している」のだった。彼は自分がいきなり中世の時代に転がり込んだかのように感じた、と振り返っている。

 

 

『朝鮮雑記』(57

 

(屍は埋めることなく、木の枝にかける)

 

 葬礼は、すべて儒教の方式にそって行われるため、僧侶がいかめしく死者に引導を渡すようなこともないし、葬式に参列することもない。

 

 棺槨(かんかく)(ひつぎ)の制度は、儒礼に基づいている。親戚や知人がこれをかつぎ、棺のうしろを、麁服(そふく)(質素な衣服)に身を包んだ喪主が随って、棺の前後を3、4の灯籠で囲み、「アイコー、アイコー」と、むせび泣く声をあげ、はかない野辺送りをする。

 

 幼い子どもが疱瘡で死んだ場合は、その屍を埋めることなく、俵に盛って、縄で縦横に縛り、これを野外の木の枝にかける。そのため、三伏(盛夏)の炎天下ともなれば、屍は腐乱して、その臭液が地上にしたたり、日中は烏や(かささぎ)がさわぎ、夕暮れには(とび)(ふくろう)が叫ぶのである。死者の霊は、寂として知るよしもないであろうけど、はなはだ無情といわねばならない。