李氏朝鮮末期の凄惨


悪辣な両班、苛烈な搾取、

悲惨な貧困、極限的不潔、

未発達な社会、残虐な刑罰、

動物以下の女性の生活など、

外国人が見た人間業とは思えない

李氏朝鮮末期の実態

 

 (朱子学は、他人が作った物を右から左へ動かして利益を得る商人を蔑視した)


 貨幣・商業―まともな貨幣さえない

 

『朝鮮紀行』(32)

 

 朝鮮の貨幣はつい最近まで質の悪い銅銭が1ドルに対して500枚の為替レートで商業取り引きの大きな障害になっていたが、単位を20セント〔1両〕とする補助貨幣〔銀貨〕が、5セント〔25分〕白銅貨、穴あき銭5枚分〔5分〕に相当する赤銅貨、1枚分〔1分〕に相当する黄銅貨とともに新しく出まわっている。良質な日本円またはドルは現在全国で通用する。日本の第一銀行および第五十八銀行がソウルと開港場で銀行業務を行っている。(ソウル)

 

 

『朝鮮紀行』(93)

 

(100円分の穴あき銭を運ぶのに男6人)

 

 貨幣に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも1軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位で縄に通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないでそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである! 旅行者は領事館を通して外務省から関子という全国の政府役所に宛てた書状がもらえる。これをたずさえた者は手厚く世話せよ、とくに食べ物、交通、金銭の面倒を見よという書状である。しかし旅行者がソウルできちんと金を払い込んでいるのに、下級官吏が外国人の金銭を立て替えても、政府から返してもらえないことがままあり、この制度は官吏にとってきわめて不愉快なもので、私は金銭のためにこれを利用しないとイギリス領事に約束した。したがって、私が旅行の前半に雇った船はバラスト(船を安定させるための底荷・引用者注)が穴あき銭で、私は円の銀貨をつめたカバンを持ち、自分の運の良さをあてにすることにした。

 

 

『朝鮮雑記』(23

 

(紙幣を見てびっくり)

 

 孔方銭の他に通貨のない国の人の発想には、それこそ、思い出すたびにおかしなものがある。それは、朝鮮のある地にて、私が懐に入れておいた紙幣を示したときである。

 さっそく、多くの韓人たちが集まってきて、その紙幣を口々に評している。その一人が言った。「これは、唐木(中国古来の銘木)、金巾(かなきん)(キャラコ)に貼りつけた印刷物(すりもの)と同じものだろう。こんなものを通貨というのは、もしや日本人は、私たちを(あざむ)こうとしているのではないか」と。

 また他の一人が言った。「もし、このような軽いものが通貨であれば、盗賊に逢ったとき、それこそ大量に(かす)めとられてしまうことになるのではないか」。というのは、韓銭はたいへん重く、いかに力持ちの盗賊であっても、15貫文、つまり日本の20円以上は持ち去ることができないからだ。

 また他の一人が言った。「韓銭をこの紙幣とやらに換えて蓄えておけば、外見はお金がないように見えるから、官人(役人)に目をつけられて、とりあげられる心配もないだろう」。官人が、理由なく庶民の財を奪っていくのは、この国の通弊である。

 

 このように、十人十色、彼らの評論は、鼎が湧く(鍋釜が沸騰する)かのように終わるところがない。まるで、目の見えない人がこの象は大きいと評しているかのようである。

 

 

『朝鮮紀行』(41)

 

 (行商人は勢力がある)

 

 狭くてほこりっぽくて曲がった通りの全長にわたり、地面に広げたむしろの上に商品が並べだされ、汚れた白い綿服姿の男か老婆が店番をしている。そして値引きを交渉する声はどんどん高くなり、もともと10分の1ファージング(40分の1ペニー)にも満たない値を、大量の息を費やしてたたく。商品からは貧しい客を相手にした小商いという印象を受ける。粗織り白もめんのはぎれ、もめん糸、わら靴、木製のくし、キセルとたばこ袋、干し魚と海藻、飾りひも、粗い紙、上質紙、色が黒に近い麦芽糖などが商品の内容である。一番値の張る品物でも3ドルはいかないと思われる。まんなかに四角い穴のあるこ売り手はそれぞれ穴あき銭〔葉銭〕の小山をわきに積み上げている。まんなかに四角い穴のあるこの変わった白銅貨は当時「公称」3200枚で1ドルに相当し、朝鮮の商業の大きな障害となっていた。

 

 釜山をはじめ多くの町で市は5日おきに立つ。市では人々は自分たちの作っていないものを手に入れる。また自分たちの作ったものを売ったり物々交換したりする。村や小さな町では商店は皆無にひとしく、生活必需品は決まった日にやって来る行商人から買う。行商は非常に勢力のある業種である。彼らはとほうもない重量の荷物を木製の背負子で運ぶ。釜山旧市街)

 

 

『朝鮮雑記』(157

 

(神農氏の時代と同じ物々交換)

 

 京城(ソウル)、公州、平壌、松都などの大都会は別格であるといっても、その他の小都会では、市場も、ただ4本の柱を立てて、(わら)でその屋根をただけの粗造の家屋が、2、30軒立ち並び、16日とか27日とか、決まった日だけ市が開かれる。

 

 この日には、近郷近在の商人たちが集まってきて、市場に(むしろ)()き、売りたいものを陳列するのである。そして、売買には、必ずしも銭文を用いない。それは物々交換であり、その様子は、あたかも神農氏の時代(中国古代の神話・伝承の時代)を思い起こさせる。

 

 それゆえ、市の立たない日には、1本の針さえ売られておらないから、食用品から日常の雑貨にいたるまで、すべて、この日に買い置きしておかなくてはならない。

 

 

 

『朝鮮雑記』(282

 

(叩頭平身、路上で売り歩く)

 

 

 はじめて、釜山に渡航するなり、すぐさま私の目に映ってきたのは、韓人が日本人居留地内を触売(ふれうり)(路上で呼び歩く商売)する光景だった。多くの韓人が老幼を問わず、(ねぎ)(にな)い、鶏を肩にかけ、魚をひっさげ、何度も居留地内を徘徊して、顧客を求めていた。

 

 彼らが、わが国語で「鶏ガースカ」、「葱ガースカ」と怪しげなる呼び声とともに、触売するさまは、強く私の耳に残っている。彼らが、垢染みて、敗れた衣服を身につけ、分厘の小利を得るがために、顧客の前で叩頭平身(ペコペコ)するさまは、深く私の脳裏に焼きついている。

 

 ああ、亡国の民となることなかれ。韓人は、少数のわが居留地民に影響されて、わが言語を学び、その居留地で触売しているのである。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(216

 

米国外交官アーレンの日記(高宗の御典医、ソウル駐在米国公使館の公使、総領事などを歴任)

 

(行商人は国王の情報員)

 

国王と〝与え与えられ〟の取引をする人びととして、アーレンは褓負商(ポプサン)を挙げている。全国を渡り歩いて商品を売るその集団(組合)は、その数15万人に達し、強大な勢力になっている、と彼は見た。それで国王は彼らを自分の「情報員」に活用し、その代価として彼らに宮内職などもろもろの権利を与えたりする、とアーレンは付け加えている。

 

 

『西洋人の見た朝鮮』(168)  

 

米国人ウィリアム・グリフィス牧師『コリア―隠者の国』

 

 グリフィスは「朝鮮の大多数の大衆にとっては、飢えさえしのげれば十分で、それ以上懸命になって働く動機が見当たらず、企業を起こす誘因もない」と見た。彼らは本当に商売する気があるが、商人蔑視の社会的な雰囲気、および「商人が商いを通じて金儲けすることで、下流階層の上昇の可能性が出てくるのを恐れる官吏階層の嫉妬などが、常に商業の発達を妨げた」と記している。

 

 

『朝鮮雑記』(54

 

(工業製品は生産されていない)

 

 虎、(ひょう)、熊、鶴、(さぎ)、米穀、人参、魚類、これらは、いずれも朝鮮の産物である。この中に、ひとつとして、天然の産物でないものはない。

 

 わが国の人は、朝鮮のことを、わが国に古文化をもたらした国だと思っている。それなのに、こういった天然の産物以外に、工業製品を輸出できるような方策を授ける、侠気(男気)のある人物は、いないものだろうか。

 

 かの国では、労働者の賃金は、たいへん低廉であるから、もしかすると、彼らを雇って生産に当たらせれば、結果として、彼らの利になるし、私たちの益ともなるのではないか。まさに、一挙両得である。

 

 

同(130

 

(傘がないから、雨が降ったら外に出ない)

 

 かの国には、傘というものがない。近年、わが国より、唐傘、あるいは洋傘などを輸出するようになって、少しは用いられるようになった。とはいっても、それは、10人中、わずか1、2人であって、他は、たいがい傘を持たない人である。

 

 少しの雨のときは、彼らは、笠の上に油紙でこしらえて雨除けをつけ、衣服は濡れるにまかせて歩く。とはいっても、雨天時には、外出しないのが通常の習わしである。雨が降ると、市街はたいへんうらさびしい。

 

 

『朝鮮雑記』(263

 

(公共精神はない)

 

 堤防の事業に限らず、なんの事業にしても、人々が共同して、その事業を大成するなどということは、到底、かの国の人には望むことができない。道路が修理されず、衛生が不行届きであるようなことも、まったく、この共同的精神を欠く結果である。

 

 そのため、いかに利益のある事業でも、個々人が、小資本をもって小刀細工的に営む習癖があって、安東布、花筵、扇子、団扇などの、すぐれた特産品があるにもかかわらず、供給する側は、常に需要側が多いのに反して、いっこうに増えない。広く海外に販路を開こうとする希望もなく、商工業は依然として発達の域に進んでいない。